柴田勝家さんの「ニルヤの島」を読みました。
私の適当な提案に乗ってくださった友人から交換本として頂いたものです。
本格的なSFでした。SFは普段ほとんど読まないんですが、私の読書のルーツは星新一なので、勝手に親和性は感じてます。
本作は構成がだいぶ難解で、複雑な人間関係性と時系列がごっちゃという感じですが、ここ数年で時系列ミスリードものに慣れすぎたお陰で、だいぶすんなり理解が及びました。
人間関係性も、中盤で少しずつ繋がり始めてから一気に視界が開けて面白くなっていく感じ、とてもよかったです。
あと特徴的なのは、文化的側面の描写が丁寧なことでしょうか。技術の変化を受けての宗教観の変化とか、興味深かったです。
以下、ネタバレありの感想です。
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今回、話が繋がりそうになった段階で、人物関係図を作成し、そこにメモりながら読んでいきました。これが多分功を奏して、だいぶ順調に理解していけました。
大きな転換点は≪Accumulation3≫の母の語りですかね。ここで結構いろんなことが繋がった感があります。
印象的な要素を挙げていきます。
【ケンジ・オバック】
この人のことを理解していくというのが本作の大きな流れだったように思います。
序盤は頭いってて意味のないことを繰り返してる人だったのが、アパタンの悲劇を知ってから振り返ると、アパタンのミームを受け継いで、救えなかった過去を塗り替えようと積荷信仰を続ける悲しい人でした。
誰よりも死後の世界を信じていたというか、信じざるを得ない状況でした。アパタンの所に娘を送り届けなくてはという想いが強すぎて…。
でも赤茶色の髪の娘は、白い髪のニイル化してしまっていて、無事にアパタンの所に行けたのだろうか…。そもそも、赤茶色の髪の娘はアパタンの元に行きたかったのだろうか…。ここは考え方次第かな。
【ヨハンナ・マルムクヴィスト】
この人が、死後世界の存在(ニルヤの島)というミームを伝搬させた中心人物ってことでいいのかな?
自分の娘を重ねて黒い髪のニイルの葬儀に参加して、赤茶色の髪の娘を助ける。母がヒロヤを産んで死んでいくのに立ち会っていく過程で母のミームを受け継ぎながら、モデカイトを導いていく。
この流れの中って、まだニイルによるミモタイプドグマは始まってないって認識で良いんですよね?
つまり、死後世界の存在というミームは自然発生的に再生してきたものであるという理解でいいのかな。いや、ミームコンピュータの出力端末がまだないというだけで、ミームの植え付けには既に成功してるということなのかな。
なんにせよ、ケンジと同じく死後世界を信じるというか願っていた一人でした。
【赤茶色の髪の娘】
この子が語り手であった部分から推察するに、マルムクヴィストは好きだけど実の両親をどこまで特別に思っていたかは謎ですね。
ワイスマンの思惑とマルムクヴィストの決断によってニイル化してしまうわけですが、黒い髪のニイルをオリジナルとして発現したという理解でいいのでしょうか。
黒い髪のニイルをオリジナルとしているからタヤに付き添うのか、そもそもタヤがミーム伝搬のための重要人物だから付き添うのか…。
次の代以降のニイルは、突如生まれるというよりも、もともといた人がニイル化する理解でいいんですよね。ニイルというミームの仕組み?が、DNAを乗り物として人間を渡り歩いていくような、そんな理解です。
【ニルヤの島】
類似した信仰が現実にもあるということなんですよね、きっと。死生観というのは人間にとって一番といっていいくらい大切な価値観で、だから宗教では死生観が語られるのだと思っています。
故人の存在を証明し、また死んだ後に祖先と統合されることで個人の物語性を担保する、そのための死後の世界というのは、なるほどと思いました。
ミームによって死後世界の概念が復活していくところを見ると、作中ではあまり明示的に語られないものの、何かしら別の意味があるのでしょう。
ここから先は想像です。
生体受像技術があったとしても、精神の老衰は避けられないように思います。肉体的な死が訪れているのであれば、個人の物語性は完結しており、永遠に同じ時を彷徨うことになります。
新しい刺激が何もなく繰り返していては、いずれ精神的な死も遅からずやってくるのでは、と思います。
この、精神的な死への焦燥感(記憶の断片化)こそが、ニルヤの島への信仰を促しているのではないかな、と思いました。
精神的な死をも乗り越えることが可能な、例えば、現象を記憶し、全く同じように再現するだけではなくて、無から新しい体験を生み出すことができるようになればあるいは、完全に死後世界の概念は失われるかもしれませんね。
精神的な死という観点で、私が最近読んだ数少ないSF「人ノ町」と類似性があり、少し理解が進んだところです。
【生体受像とミームコンピュータ】
DNAコンピュータ、ミームコンピュータというのは、初めて出会う概念で、結構よくある考え方なのかもですが、私としては非常に斬新な印象を受けて興味深かったです。
確かに、人間の処理能力ってコンピュータなんかよりよっぽど優秀な場面ってありますもんね。コンピュータで人間を再現しよう、じゃなくて、人間の仕組みそのものを利用しようという、発想の転換ですね。
作中のノヴァクの時代には、ECMの人間全体が演算装置として利用されているってことですよね…。だいぶ恐ろしいことになってきました。
【読み取れなかった部分】
単純な人間関係図ですが、結局クルトウルは登場人物の誰かなのか?というのと、ヒロヤの父は出てこなかった?ここだけ抜けているのが不自然な気もするが…というのが抜けた部分です。
【最後に】
ミームが意思を持つとするならば、ミームと人間の関係性は変化していきそう。仮に、ミームが人類自身を進化させるためのものであり続けたとしても、ミームが思う進化を人間が望むとは限らない。
最期のTAGは、ミーム目線のように思う。ミームは今のところ人間よりも一つ上の概念にあって、我々がゲームを遊ぶような構造で、我々の認識の外で活動しているような。
果たしてこれはハッピーエンドなのか、バッドエンドなのか。私にはわからないけど、面白かったのは確かです。凪良さんの「滅びの前のシャングリラ」に通ずる所もちょっとあり、破滅へと向かっていくエンドなのに不思議と爽やかで、幸福感すら漂ってくるような、そんな綺麗なまとめ上げ。