ずっとお城で暮らしてる

趣味にまつわる記録簿です。小説の感想がほとんどです。

セラフィマと戦争を駆け抜ける

逢坂冬馬さんの『同志少女よ、敵を撃て』を読みました。

 

本作は、あらゆる界隈から推されていて、いろんな所でこの作品名を目にしてきました。ここまで推されていると、逆に引いてしまうあまのじゃくな私ですが、直木賞候補にまで選ばれたということで、これ以上ハードルが上がる前に読まねばなるまい!と思って読みました。第11回アガサ・クリスティー賞大賞に選ばれており、史上初の全選考委員満点作品とのことです。

 

なにより、あらすじの時点ですでに面白そうなんですよね。襲われた村の生き残りである女の子が、狙撃兵として成長していく復讐譚…ぜったい面白いじゃんね…。結果、非常に面白かったです。面白かった、では片づけられない、濃厚な物語でしたけれども。

 

主人公・セラフィマと一緒に第二次世界大戦を駆け抜けていく物語です。セラフィマをはじめ、各登場人物の描写が丁寧で、一貫性があって、その分、心情の変化が象徴的で切ないのです…。

 

歴史としての対立、国としての勝敗はよく知られたものだけれども、こういった、個人に寄り添って描かれる戦争~戦後は、やっぱり胸に刺さるものがあります。歴史としての戦争ではなく、一個人としての戦争の意味に迫るような物語でした。

 

なぜ、戦うのか。なぜ敵を倒すのか、つまり、なぜ人を殺すのか。これらの意味・正当性を、個人の中でどう昇華させていくのか。そして、それを最期まで貫くことができるのか。これはおそらくにして兵士の数だけ分岐があったのだろうけれど、その一端を感じ取ることができました。

 

こういったメッセージ性の強い作品でありながらも、エンタメ性の完成度の高さもすごかった。戦闘シーンの緊迫感、迫力、展開のしかたがとてもよい。大ボリュームな作品にも関わらず、ハラハラしながらどんどん読み進めることができました。

 

では、以下ネタバレありで書いていきます。

 

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う~ん、まとめ方が難しいけれど、人物ごとにいきましょうか。

 

【セラフィマ】

一番変化が激しい人でしたが、すごく寄り添える存在というか、読んでいる時は私もセラフィマの一部として進んでいる感覚でした。

人を撃つなんてできるわけがないと思っていた少女が、復讐心を燃料として狙撃兵へと成り代わり、終盤には知略や様々な技術を身につけて危機を乗り切る…。スターリングラードでの戦いやケーニヒスベルクでの復讐劇は、エンタメ的には非常にハラハラしたけれど、あぁ…セラフィマはこんな境地まで登り詰めてしまったのか…というもの悲しさもある不思議な感覚でした。

 

でも最期には、自分が何のために戦っていたのか、それを貫かんとするセラフィマの軸がハッキリとみえて、個人的には安心しました。"復讐"を目的化せず、真なる目的にまっすぐに生きた結果です。イリーナの教えがここでも光っているね。

 

【イリーナ】

イリーナの独白も見てみたいなと思いつつ、それは野暮な話かな、とも思いつつ。

独り残された少女たちに"復讐"という目的を与え、生きる気力・意味を取り戻させる。そのうえで、訓練学校での厳しい訓練を経て、"復讐"を手段の一つにスライドさせ、真に生きる目的を思い出させ、そのために生きることを選ばせる。それが、卒業試験の最期に問いかけた「何のために戦うか」に現れている気がします。イリーナ、あなたは天才では??

 

もちろん思い通りにいっていないこともあるだろうし、兵力としての意味がないわけはなかったと思うんだけど、でもあの時代の中で、イリーナが「何のために戦うか」がここに詰まっているように感じました。

 

【シャルロッタ】

牛を撃つことでさえあんなに躊躇っていたシャルロッタが…という想いもありますが、戦中・戦後の様子をみるに、一番軸のぶれない人だったのだろう、と思います。自分の行動に関して、自分の中での意味づけがしっかりできている。

牛を撃つことについても、あの段階では意味づけができていなかったから躊躇って、でもセラフィマの意味づけを教えてもらうことで、シャルロッタの中でも腑に落ちた、ということだろうと思いました。戦中・戦後にかんしてもそう。敵を撃つことに関しても、しっかりと意味づけができていたから、戦後になっても"敵を撃ったこと"が、少なくともシャルロッタ自身の中では"人を殺したこと"と同義にはならなかった。

 

【ヤーナ】

ヤーナ自身から話は少し遠いが、本作の帯文はちょっと誤解を招くと思う(帯文が誤解を招くことは往々にしてあるので、読者もその心づもりを忘れてはならないが)。"衝撃的な結末"であることや、アガサ・クリスティー賞大賞と書かれると、ミステリー要素・どんでん返し要素があるのだろうかと邪推してしまったのです。

 

もちろんある側面では"衝撃的な結末"であるし、そもそもこれは書評の一部を切り取った表現であるから、ことさら意識的に書かれた表現ではないと(読後に)わかったし、アガサ・クリスティー賞も必ずしもミステリ色が強いわけではない、というのも(読後に)分かったので、誰が悪いかというと、まぁ、私なのかもしれないが…。

 

そんなわけで、私の悪い癖が発動し、隠された伏線がないかを気にしながら読んでいたという話なのですが、ここでヤーナに話が帰結します。ヤーナは序盤に"ママ"という渾名がつき、以降徐々に地の文でも"ママ"と呼ばれ始め、なんか怪しいぞ…ママがヤーナでない可能性が…と思ってしまっていました。でもママがヤーナでなかったとして、それは読者しか引っかからない類の叙述トリックであり、そこになんの意味も見いだせないので、そんなことはないとは思っていました。

 

はい、ヤーナ自身に話を戻しますと、彼女はシャルロッタと対照的で、"何のために戦うか"はハッキリしていたけれど、"何のために敵を撃つか"については曖昧なままだったように思います。"何のために戦うか"の裏に隠れてしまっていた。

だから、戦後の落ち込みが激しかったのかなと思います。でも、それもシャルロッタの影響でうまく中和されたのですから、シャルロッタとは本当にすてきな関係性だなと思います。

とはいえ、シャルロッタみたいな人の方が稀なはずです。多くの人が、戦中は"人を殺すこと"をうまく"敵を倒すこと"にすげ替えて精神を保っていたはずです。戦後になると、こんどは"敵を倒したこと"が"人を殺したこと"に変わり、各兵士の中に取り残される。これはある意味で、戦中よりも辛い、と思いました。桜庭一樹さんの『少女には向かない職業』で受けた衝撃をほんのりと思い出しました。

 

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ダメでした、濃厚な物語に対して、その感想を簡潔にまとめるだけの語彙力が足りませんでした。

 

帯文の後ろの沼野恭子さんの文章は、私とても好きで、まさしくまとめにふさわしいと思ったので、それを引用して締めたいと思います。

 

第二次世界大戦時、最前線の極限状態に抛りこまれたソ連の女性狙撃手セラフィマの怒り、逡巡、悲しみ、慟哭、愛が手に取るように描かれ、戦争のリアルを戦慄とともに感じさせる傑作である。読者は、仇をとることの意義を考えさせられ、喪失感と絶望に襲われながらも、セラフィマとともに血なまぐさい戦場を駆け抜けることになるにちがいない。