ずっとお城で暮らしてる

趣味にまつわる記録簿です。小説の感想がほとんどです。

推し × 純文学

宇佐見りんさんの「推し、燃ゆ」を読みました。

 

芥川賞を受賞したこと、本屋大賞にノミネートされていること、それから題名のインパクトが強いことから、結構多くの方がご存知の作品だと思います。

 

私も芥川賞を受賞した時に知って、読みたいと思っていたら本屋大賞にノミネートされたので、本屋大賞ノミネート作品読破の第5作目として読みました。

 

まずは読む前の印象から。

 

題名もさることながら、『推しが、炎上した。』という印象的なフレーズで語られるあらすじからは、何も知らなければエンタメ小説の匂いがしますよね。「老後の資金がありません」のような、現代の実際的な悩みを扱った作品のような。

 

でも、芥川賞を受賞しているんです。ということは、純文学のはずなんだけど、推し × 純文学って成立するのか…??と思ってました。

 

読後の、作品様式に対する端的な印象としては、思いっきり純文学でした。芥川賞・純文学というジャンルには最近手を付けだしたニワカの私ですら、「めちゃくちゃ純文学だ…これが芥川賞だ…」と思わずにはいられないほどに。

 

これから読む方もいらっしゃると思いますが、エンタメ性は皆無で終始重い雰囲気が流れています。そこだけご注意くださいませ。

 

ネタバレなしで端的に感想を述べるなら、「これぞ"令和の純文学"…!」です。現代社会を真正面から生々しく描く一方で、非常に独特で美しい表現がちりばめられていて、非常に美しい芸術作品だと感じました。

 

話がそれます。多分に語弊があると思いますが、一応自分の頭の中での解釈を整理しておくと、エンタメ小説が、起承転結がはっきりしていてある程度のお約束がある一方で、純文学は、なんでもありの領域です。エンタメ小説はなるべく多くの読者体験をより良いものに、という想いが見られる場合が多いですが、純文学は分かる人が分かる側面だけ解釈してくれればそれでいい、というような芸術作品だと思っています。たとえるなら、エンタメ小説がマンガで、純文学が絵画。同じフィールドではありながら、ジャンルが余りに違う、そういうイメージです。だから、どっちがいいとかいう話ではなく、楽しみ方が違います、ということです。

 

以下、あんまりネタバレというほどの内容でない部分もありますが、テーマの核心的なところのお話になるので、ネタバレご注意です。

 

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改めての感想ですが、非常に美しいと感じました。推しを推すということ、SNS社会で生きるということ、多様性への無理解さ、これらを、非常に独特で美しい表現をちりばめながら、仄暗い部分も真正面から生々しく描ききっています。

 

明確な救いなんて当然なくて、物語としての輪郭はぼんやりとしています。でもこれによって、いろんなものが不確実なまま、不安なまま、でもなんとなく連続的に時は流れていくような、そんなまさしく今の時代の有様というリアリティが格段に高まっています。現代を限りなく適切に切り取っていると思いました。いい意味で創作性を感じないというか、嘘偽りがないというか、写実主義的というか。まさしく、”令和の純文学”って感じです。

 

これは、今この時代を、若者として過ごしていなければ、なかなか共感できない部分だと思います。たぶん私の世代くらいが、ギリギリなんだと思っています。学生時代をインターネット社会の進化とともに過ごしてきた世代でなければ。

 

田辺聖子さんの芥川賞受賞作「感傷旅行」では、党員という存在になじみがなく、ここに理解や共感性があればもっと楽しめたのかな、と思ったのですが、これがまさしく当時の時代性を切り取ったものだったのだろうと思います。なので今回は、この時代に生きて、こういった時代への共感性も高い状態でこの作品を読めて、本当によかったなと思いました。

 

さきほども書いたように、独特の表現が多かった印象なので、特に印象に残っている描写を振り返っていきます。

 

きついまぶしさで見えづらくなった画面に0815、推しの誕生日を入力し、何の気なしにひらいたSNSは人の呼気にまみれている。

冒頭p4。ここでの成美との会話表現ですでに純文学みを感じていて、「すげぇ…推しという概念と純文学が両立しとる…」と思いました。この文章も、状況はすごく現代的でエンタメ的なんだけど、「人の呼気にまみれている」って。すごいです。

 

垢や日焼け止めなどではなく、もっと抽象的な、肉、のようなものが水に溶け出している。

p7以降のプールの描写。この感覚めちゃくちゃわかる~~~~。こんな表現はもちろんできないけど。

 

寝起きするだけでシーツに皺が寄るように、生きているだけで皺寄せがくる。

p9。この表現ほんとすごいなぁ。あかりの言うところとは違うかもだけど、私も容易に意思と肉体が途切れます。

 

保健室で病院の受診を勧められ、ふたつほど診断名がついた。

p9。診断名が明かされることはないけれど、終盤まで影響を与えている要素です。あかりにとって、努力だけではどうしようもできないことがあるということ。重要な要素であるのに説明が淡々としていて内容も薄く、解像度が低いのが、非常に現代っぽさを出していると感じました。あと、診断名が一度楽にしてくれる感覚、わかる。

 

あたしのスタンスは作品も人もまるごと解釈し続けることだった。推しの見る世界を見たかった。

p18。細かいことは最後の内省にて。推しの炎上や引退が、あかりのこのスタンスを崩してしまったのですよね。

 

あたしがここでは落ち着いたしっかり者というイメージで通っているように、もしかするとみんな実態は少しずつ違っているのかもしれない。それでも半分フィクションの自分でかかわる世界は優しかった。

p35。本当にこれ。私もこの自覚あるけれど、今はもう、どっちの自分も自分だと思っているので、大丈夫です。

 

だけど推しを推すことがあたしの生活の中心で絶対で、それだけは何をおいても明確だった。中心っていうか、背骨かな。

p37。あかりを言い表した部分。

 

わけがわからなかった。庇う基準も、苛立つ基準もわからない。姉は理屈でなく、ほとんど肉体でしゃべり、泣き、怒った。

p57・58。ほとんど肉体でしゃべるというのが言い得て妙でした。

 

常に平等で相互的な関係を目指している人たちは、そのバランスが崩れた一方的な関係性を不健康だと言う。(中略)相手と話して距離が近づくこともない、あたしが何かをすることで関係性が壊れることもない、一定のへだたりのある場所で誰かの存在を感じ続けられることが、安らぎを与えてくれるということがあるように思う。

p61・62。ここが本作の一番だと個人的には思いました。推しを推すということを人間関係という視点で見たことがなかったので新鮮でしたが、まさしくこの表現がしっくりきますね。そのへだたりぶんの優しさ、私もそこにすがっている感がある。

 

『つらいと思うけど、しばらく休みな』

p77。私の解釈した姉がめちゃくちゃ言いそうな台詞だったので笑っちゃいました。逆にいえば、姉に悪気なんてなんにもないことが分かるので、かえってすっきりかな。

 

『働かない人は生きていけないんだよ。野生動物と同じで、餌をとらなきゃ死ぬんだから』

p91。うわぁ、父親も無理解がひどいなぁ、と思っちゃいました。あかりとの相性はめちゃくちゃ悪い。

 

推しのいない人生は余生だった。

p112。冒頭からそうだけど、あかりの諦観がすごすぎて…。作品全体が重いのはこのあたりですよね。

 

中心ではなく全体が、あたしの生きてきた結果だと思った。(中略)二足歩行は向いてなかったみたいだし、当分はこれで生きようと思った。体は重かった。綿棒をひろった。

p125。明るめに捉えるならば、推しと自分を重ねていたことから、今後は自分を解釈し続けることに可能性を見出したのではないか、という終わり方。

暗めに捉えるならば、推しのいない人生には意味がないと断ずる一方で、後片付けが楽な綿棒を使うなど、「このあと」のことを考えてしまっていることに気づく。つまり本当の意味で自暴自棄になることのできない自分を自虐的に認識し、余生を死んだように生きるしかないと思っている、という終わり方。

正解はないと思います。

 

最期に、私の内省です。

私自身に対する気づきとして、「解釈する」ということに一般的な人間よりも少し執着が強いのだと気づきました。作品の中で出てきますが、いわゆるファンといっても、推しとのかかわり方は十人十色です。

推しのすべての行動を信奉する人もいれば、善し悪しがわからないとファンとは言えないと批評する人もいる。推しを恋愛的に好きで作品には興味がない人、そういった感情はないが推しにリプライを送るなど積極的に触れ合う人、逆に作品だけが好きでスキャンダルなどに一切興味を示さない人…(略)

 そのなかで、主人公あかりのスタンスは、「作品も人もまるごと解釈し続けること」です。推しの言動・行動すべてを記録し、解釈していくことで、推しの見る世界を見たい、ということです。推しと自分を重ねている(推しに対しての共感性を高くあろうとしている)ような描写も多かったですね。

私は、あかりのような確固たるレベルの推しはいませんが、彼女と同じように、好きなものを中心にあらゆるものを「まるごと解釈し続けること」というスタンスを取っていることに気づきました。私は小説を中心とする物語が好きですが、登場人物がこの場面でこの行動を取った理由を解釈することで楽しむというスタンスを取ることが多いですし、作者が物語を創造するうえで、この場面をここに入れた理由を解釈することで楽しむというスタンスを取ることも同時にやったりします。

これは、好きな作品にはもちろんですが、私にとってイマイチな作品に対して意識的にやっているように思います。私にとってイマイチというのは、上記の理由が解釈できないことに起因することが多いのですが、みる側面を変えることで解釈できないか、と考えることが楽しいし、なによりそうやって解釈できた時には、新たな価値観・新たな楽しさを自分の中に得ることができたということなので、非常にうれしいのです。

 

以上、非常に貴重な読書体験でした。今度、「かか」も読ませて頂きます。